本場黄八丈(丸まなこ)/山下芙美子+品川恭子/染め名古屋帯..、着物と帯のあわせ

山下芙美子/本場黄八丈.丸まなこ織"着物と帯のあわせ"の中で<本場黄八丈>と<品川恭子氏制作"八ツ手"の染め帯>のあわせをご紹介したことがあります。

山下八百子(故人)が手掛けた比類のない"鳶"の色を印象させる本場黄八丈...、そして、枯れ朽ちた"八ツ手の図"から漂ってくる"綺麗さ"をもった染め帯...、これら"着物と帯"それぞれのもつ存在感を"あわせのCocept"としました。

素材感や色印象を想えば、また違う"解りやすいあわせ"もあるんですが、着物や帯、それぞれから感じられるものを、わざわざ"あわせのCocept"としたんですね。
制作者の美意識とか、手仕事が伝える質感が残る"作品"に対しては、"感じられるもの"または"感じるもの"を視点に"あわせ"をしてみたんです。
色だけとか素材だけの"あわせ"とは違う、作品がもたらす特別な存在感を、着物と帯の"あわせ"にも感じられるですね。

そして、今回も"本場黄八丈と品川恭子制作の染め帯"の"あわせ"のご紹介です。

本場黄八丈は、山下芙美子制作の<丸まなこ>です。
<丸まなこ>は、これまで山下八百子/芙美子さんが手掛けてきた綾織と比べても..、更に、精緻で、細かな綾織が織り込まれています。
この<丸まなこ>は菱型の織が入れ子のように織り込まれて行くのですが、この菱型の織が、極めて細かい、徹底的に精妙なのです。
それも、すべて"ひとの手"で織られている。機械的、無機質的な感じが"完全にない"んです。

どうやら"椎"でグレイ色に染められた絹糸と泥染め(黒八丈に供する糸)された黒色の絹糸..、大きく分けると二つ種類の絹糸が織り込まれているようです。恐らくは、無秩序に近い感覚で糸が使い分けれているのかもしれませんが、何かの規則性があるかのような"整い"が感じられるのです。
色の表情に、妙な"澱み"とか"斑感覚"がなく、やはり"整って"いるんです。そして、無彩色印象を超えた"色の気配"が確実に感じられるんです。
極上質の絹糸と八丈島の草木染め、そして、織人の美意識と卓絶した技術が相俟って生まれた"整い"と"色の気配"なんだと思います。

"無地織"とか"無地感覚"と言う形容は、この<丸まなこ>には馴染まないように思います。
確かに、見た眼には生地を飾る柄模様はありません...、色を想っても眼に付きやすい色ではない。無彩色などと言われる色であり、主張をする色ではない...、けれども、<丸まなこ>そのものが存在感を伝えるんです。


さて、品川恭子制作の染め帯です。
やはり、染め帯としては、そこらにはない"存在感"が感じられるんですね。
それも"衒い"のようなものが一切ない..、無垢な美意識と研ぎ澄まされた感性からつくられているんだと思います。

染め描かれている"絵"なんですが、ちょっと妙なる感じがある。
以前、ご紹介をした"八ツ手"も"枯れ朽ちていた姿"を染め描いていたんです。きちんと感覚ある塩瀬素材に、わざわざ"枯れ朽ちた葉"を描くと言う趣向..、それにも関わらず、違和感なく、"絵"に向かうことが出来たんですね。

こちらで掲載をさせて頂いた染め帯の"絵"なんですが...、"芭蕉の葉"なんでしょうか、そこに"雪"がのっている。そして、瑞雲があり、文様図案とされた"花文様"がある(いやいや花紋なんでしょうか)。
染め描かれた"図案"一つ々々が、個性的でありながらも、繋がっている感じがある。どんな訳で繋がっているかはその理由(わけ)は解らないんですが..。

品川恭子/染帯何が染め描かれているかは上手く説明できないんですが、とにかく"図案"一つ々々に作者の感性が感じられる..、"絵"そのものとしては、万葉の時代に詠まれた"和歌"の類から香ってくる匂いのようなものを想うんです。
和歌には、文芸としての解釈の他に、音による解釈があるようなんですが、この"絵"にも、"絵"としての意味だけでなくて、万葉時代の"詞"を想わせる香りがあるんですね。それも、様式を意識したものはなく、知性を衒ったものでもない..、そして、宮廷的、雅な感じでもない。
古の歌人が、詠嘆に任せて言葉を連ねることで和歌を紡ぎ出した様に、この"絵"にも、僅かな"物語"..、それも、ほんの数行で終わってしまう物語のようなものが伝わってくるのです。

色彩的な印象は、決して明るくはありませんが、暗い印象はない..、明るい暗いよりも伝わってくるものがある訳です。
僅かな"物語"..、和歌のように数行で終わる物語です。
ただ、伝わってくる感触は、とても詠嘆的なんです。だから、感情とか感性で受け止めるしかないんですね。

染色手法だけで伝えられるものではありません。染色が巧いだけでは表現できない空気があるんです。
絵画的感性とか、文芸的な感性が、無意識的に作者の奥底にあるのかもしれません。


山下芙美子の<丸まなこ>と品川恭子の<染め帯>..、そのどちらも"装飾的な印象"としては控えられている感じがするかもしれません。でも、そんなことはどうでも良いくらいの存在感があるんですね。
たとえば、光を受ければ受けるほど、多様な意味での"深み"のようなものをおびてくると思います。
無彩色の絹織物と彩色が控えられた染め帯..、それも染色工芸作家が制作した作品..、それだけでのお話なんですが、眼で感じられる印象は、複雑で、言葉に代えることが出来そうにもないんです。しかし、感じている印象は、気持ちの奥底に心地良い詠嘆をもって響いてくるかのようなんです。

着物が"ひと"を飾る"道具"に過ぎないなら、こうした"着物と帯のあわせ"は、ナンセンスなのかもしれませんね。