品川恭子."八ツ手"の染め帯と山下八百子.本場黄八丈..、これで良いかな?

品川恭子/染帯.八ツ手+山下八百子/本場黄八丈"着物と帯のあわせ"...、山下八百子さんの本場黄八丈と品川恭子さんの染め帯との"着物と帯のあわせ"

さて..、この"あわせ"なんですが、単純に、着物と帯のグレイド的な視点で"あわせ"ている訳ではありません。

そもそも、品川恭子さんのこの染め帯...、"八ツ手"の染め帯をどんな着物に、どんなTPOとして楽しめるのかな、と言った感じで考えていたのですが、眺めているとちょっと他にはない存在感が感じられるようになったのです。

塩瀬素材の生地に"八ツ手"の葉が染め描かれています。
それも、枯れ朽ちて、虫喰い葉となった八ツ手です。
加賀友禅に特徴的に染め描かれている虫喰い葉ではなくて、本当に枯れ朽ちている姿が染め描かれています。

この"八ツ手"なんですが、着物とか帯の図案そのもの以上に、実に巧く染め描かれています。

"ろうけつ染め"の濃淡を巧み使うことで、枯れ朽ちた雰囲気が見事に表現されているんですね..。
こうした作風なんですが、実際にみて知ってしまうと、当たり前の様に、また、ごく自然に眼に馴染んでしまいがちではあるのですが....、"染め描く"ことで、"ろうけつ"の濃淡でこうした雰囲気を表現すると言うのは、あまりみたことはありません。

品川恭子と言う染色家の絵画的センスから生まれたものだと思います。

さて..、こうした枯れ朽ちた虫喰い葉の染め帯なるものは、当たり前なものとして捉えるならば、"趣味趣向に興じたもの"となると思いますが、この品川恭子さんの"八ツ手"から感じる空気感は...、違うのです。

この枯れ朽ちた"八ツ手"なんですが、とても綺麗な感じが伝わって来るのです。虫に喰われ、枯れ朽ちた葉が染め描かれているにも関わらず、とても綺麗な感じ...、清潔感をも感じられるのです。

ただ趣味趣向の染め帯...、ろうけつ染めの帯...、"ちょっと洒落ていますよ"ではないのです。
だからと言って、この枯れ朽ちた虫喰い葉の染め帯が、凛とした手描き友禅の染め帯如き礼装感を伝えるかと言うと..、また、違うのです。そもそも、枯れ朽ちていて礼装と言う訳にはいかない筈ですね。

この"八ツ手"は、染色家.品川恭子さんの美意識から生まれた孤高の存在感があるのです。

こうした存在感をどう使うか..、如何に楽しむかは..、着物との"あわせ"の楽しさに繋がるじゃないかと思います。

品川恭子.染帯+本場黄八丈.山下八百子そこで、山下八百子さんの本場黄八丈...、黄八丈と言うより"鳶"の匂いのある黄八丈を"あわせ"のお着物として取り上げてみました。

この黄八丈は、紬織物でなりながら、通常、紬織物には感じられない特別な感じが伝わってくるのです。

紬織物にありがちな、素朴さとか普段着的な雰囲気はまるでありません。色も...、細かく綾織として織られた多彩色が、独特の色印象をつくっています。おおざっぱに言ってしまえば、鳶色は鳶色なんですが、眼にしている色は、"鳶色"と言う言葉以上の美しさと深さを感じるのです。

この着物は、光の加減や帯とのバランスによって、色の加減や織の表情が移り変わるのです。精緻な綾織と植物からつくられた色が相俟った特別の感じなんだとと思います。

普段着的な空気感はありません。また、いかに綺麗な織物といっても、礼を意識したお着物となる訳ではありません。

"あわせ"のConceptとしては、着物や帯...、それぞれから伝わってくる存在感を"あわせ"てみてみたのです。

色艶や素材感からすると、こうした"あわせ"よりも、もっと馴染む"あわせ"はあるかと思います。
この"八ツ手"の地色や雰囲気から想うと、薄灰色系の江戸小紋とか落ち着いた地色の文様散らしの小紋などに"あわせ"ても違和感なく馴染む筈です。それは違和感や不自然さがない"姿かたち"のバランスを適わせた"あわせ"に止まります。

品川恭子さんの"八ツ手"の染め帯も、山下八百子さんの本場黄八丈も、特別な存在感を持っている...、そして、不自然さなく馴染むのでしたら、着物や帯、それぞれから感じるもの...、メンタルな視点で"着物と帯のあわせ"を探し楽しんでみるのも良いと思います。

本場結城紬と型絵染めの帯..、"普段遣い"のお楽しみ//着物と帯のあわせのCocept

本場結城紬+型絵染め帯地.森田麻里"着物と帯のあわせのCocept"..、今回は"普段遣いのあわせを楽しむ"と言うテーマでお話を進めてみたいと思います。

この"普段遣いの着物"の内容なんですが、これはもちろん、部屋着としてお召しになるお着物に相当するお着物ではありません。
あくまでも余所行き感覚ではなくて..、また街着程度なものでもない..、肌に馴染んだ着物と帯を上手に使いこなすと言うようなイメージとなるのかもしれません。

"普段遣い"と言う"意識"も、ひとつの"あわせの美意識"だと思います。"普段遣い"的な着こなしを敢えて楽しむ...、ですから、むしろ、"着物と帯のあわせ"に隙があってはならない。普段遣い的な着物や帯などに隙があると、本気に野暮さがみえてしまいます。

"普段遣い"と言う印象を狙った"あわせ"...、あまり余所行き感が強くても締まり過ぎた感が残りますし、先のお話をしたように本気で野暮くても抜けた感じとなってしまいます。

もしかしたら"野暮いかも知れない"..、いやいや"その感じが巧み"などと言う程度が狙い(楽しみ)ではないでしょうか?

掲載をさせて頂いているお着物は本場結城紬/地機...、きなり地に藍色の格子柄です。帯地は、国画会で作品を発表されている森田麻里さんの型絵染めです。

本場結城紬は、そもそも"普段遣いのお着物"として捉えられているのですが、絵絣をあしらったり、絣を組み合わせて大胆さが表現された本場結城紬は、"普段遣い以上"の質感や印象が感じられることがあります。真綿だらけの紬織なんですが、手を掛ければ手を掛けるほど"洒落た空気"や"余所行き感"が強くなるようなんです。
また、紬織に向けて制作された袋帯などがあわせられると、"普段遣い印象"は失せて、ほぼ"余所行き"の"あわせ"っぽくなってしまう可能性もあります。


この格子織の本場結城紬には、ちょうど良い程の普段遣い感あります。そもそも、格子織は普段遣い感のある柄です。
染めのお着物でも、格子柄は、あらたまった席やお堅い茶席などには非礼とされています。

この本場結城紬の格子なんですが格子織の紬織物としては、とても良く出来ていると思います。
線で引いたよう格子ではなくて、甘い感じの線で格子が構成されています。色目も"きなり"の地色に対してかすれた感じの"藍色"の格子織...、ギンガムチックを想わせる格子織です。
通常、こうした格子織は"野暮ったい"だけなんですが、さすがに本場結城紬の地機織です。野暮い織物ではなくて、民芸的な手づくり感ある織物に織り上がっています。

陶器に例えるなら名窯で焼かれた織部と言うところでしょうか。
民芸的あり、どこか垢抜けしたところも感じられるのです。

本場結城紬+型絵染め帯地.森田麻里こうした本場結城紬だけで、"普段着的な装い"を演出することも出来ると思います。

季節を想わせる"ちりめんの染帯"とか"紬織の八寸帯"など"あわせる"なら無難なところかもしれません。
でも、先にお話をした"隙"のようなものが生じて"本気で"野暮く"なってしまうかもしれないのです。
ついつい、このギンガムチェックの真綿紬の野暮さに足をすくわれてしまうんですね。

やはり、帯は大切なのです。着物には、それ相当の釣り合い適う帯をあわせるべきなんですね。もちろん、この釣り合いは、帯と着物のお値段の問題ではなくて、感覚や質感、空気感のバランスなんです。

どんなイメージの装いとするか...、装いの意識をもって帯を選びあわせる必要があります。

ここでは型絵染めの帯をあわせてみました。

単純に染め帯と言うより...、制作者の意識がしっかりと表現された絵画的印象の帯です。
"森の中に咲き乱れた花"でしょうか? 絵の質感が印象性を想わせて、何となく民芸的、工芸的な空気感を感じさせる帯です。こうした印象をもった帯なんですが、"普段着感覚"に対して工芸的、美術的な香りを与えてくれるのです。

あくまでも普段着感覚でありながらも、ちょっと"着物に対する想い"が感じられる"着物と帯のあわせ"ではないでしょうか? 余所行きとはちょっと言えない感じです。しかし、野暮いなどとは言わせない工芸的な空気感があるのです。

ただ..、こうした工芸的な空気感が着物や帯にないと"普段着感覚でありながら"+"着物に対する想い"の伝わる"着物あわせ"は難しいのでしょうか? とも考えたくなるかもしれません。

普段遣いを感じさせる着物や帯であっても"あわせの意識"をもつ...、そして、趣味趣向が利いた着物姿とすることが、野暮さに落ちない"あわせ"になるかと思います。

工芸的な空気感と言うのも..、"野暮さ"とは離れたちょっと磨かれた感じのする普段着感覚とも言い換えて良いかもしれません。
"普段遣いの着物あわせ"は、誰かひとの眼を特別に意識するのではない..、趣味趣向を想いながら、装うことを楽しむ"あわせ"になると思います。
質の良い陶器やお道具を使い、そして、愛でるのとちょっと似ているかもしれませんね。、

季節のおすそ分け...、紅葉、圧巻でした

02.jpg先日、京都.東福寺の紅葉を堪能して参りました。

感動のおすそ分けと言っては失礼かもしれませんが、あの素晴らしい紅葉の感動を僅かですが、ご紹介をさせて下さい...。

東福寺は、臨済宗東福寺派大本山で、国宝指定の三門、方丈、開山堂、観音堂などの建築と数々の塔頭をもった大伽藍のお寺です。
また、街の中の寺院でありながらも、その広大な伽藍には、洗玉澗(せんぎょくかん)という渓谷があって、臥雲橋、通天橋、偃月橋という3本の橋が架かっているのが京都市内では他に類をみない寺院です。
特に、通天橋からみる紅葉は、京都紅葉の名所にも挙げられています(私としては、日本の紅葉でも指折りの素晴らしさなのではと思います)。

wikiで東福寺を調べると、歌川広重が通天橋の紅葉を浮世絵で残しているんですね。
江戸の頃から、通天橋からみる紅葉は人の眼を楽しませていたんでしょうね。

一番最初の画像は、通天橋を渡って、本堂に向かって撮った写真です。

東福寺の見どころは、紅葉、三本の橋の他に...、ご存じ方も多いかもしれませんが、昭和の作庭家.重森三玲が手掛けた庭園があります。
方丈に対して東西南北の四方に配された"八相の庭"は、"人間がつくった"自然"を想わせるようでもありながら、禅宗大本山の方丈にあるせいか、どこか哲学的というか、"禅"の思想のようなものが肌で伝わって来ました...。
もちろん、この方丈を囲む"八相の庭"は、訪れる人によって見え方、感じ方は決定的に違うとは思います。

是非とも、東福寺に行かれた際には"八相の庭"で時間を過ごしてみて下さい。

01.jpgこちらの写真画像は、通天橋の傍らのお庭で撮影しました。
この日の天気は、午前は晴れ、午後から曇り、そして、雨の予報でした。この写真を写した時間は午前10時前だったと思います。
みる角度や陽光の加減で紅葉の姿は確実に変わります。

この紅葉写真ですが、レタッチ/画像処理は加えていません。

いま写真画像をみても、あの時の紅葉は言葉を忘れる程に圧巻だったと思います。


もうひとつ...、私が訪れたこの日には、東福寺の中で特別拝観されている塔頭がありました。

龍吟庵と言う塔頭で、三本の橋の中で最も小さな橋/偃月橋を渡ったところにあります。
私は、寺院の塔頭を憶えるほど詳しくはないし、興味も深くはないのですが、龍吟庵の名前は知っていました。

重森三玲の枯山水庭園がここにもあると聞いていたからです。

実は、私は、東福寺には、これまでにも幾度も訪れたことがあります。
十数年前には、特別拝観もなかったし、近年この季節に東福寺に訪れる機会もなかったため、龍吟庵には入ったことがありませんでした。

00.jpg龍吟庵のお庭は、その方丈を囲んで..、東.西.南にそれぞれ枯山水が配されています。

同じ重森三玲が手掛けた方丈庭園である"八相の庭"が哲学的、あるいは"禅の思想的"な雰囲気を感じたのですが、こちらの方丈庭園/枯山水からは、まったく別の雰囲気が伝わって来ました。

もちろん、訪れる人によって感じるものは違うと思いますが..。

龍吟庵からは、あまり感動的な紅葉をみることは出来ませんでした。
時季的、タイミング的には龍吟庵の紅葉も美しいのかもしれませんが、私が訪れたこの日、この時間の龍吟庵には、息を呑む程の紅葉はなかったのです。

こちらの写真画像は、偃月橋を渡って龍吟庵の玄関のところに散っていた紅葉です。散っていた紅葉にまでにも美しさを感じられるほど、辺りは素晴らしい紅葉に尽くされていたんです。

龍吟庵の庭園のお話ですが...、東の庭は"不離の庭"と名付け名付けられたお庭で、赤い砂が枯山水に使われています。西の庭は"龍門の庭"と名付けられ、"龍の姿"を枯山水で表現されています。そして、"無の庭"と名付けられた南の庭は、ただ、白い砂が白砂を敷いただけの庭。

"八相の庭"の精神性を想うと...、ちょっと人間的な感じが伝わってくると言うのが感想でした。俗っぽいと言う感じはまるでないのですが、どこか"人間"が介する余地がある...、"八相の庭"をみた後の私にとって不思議な空間でした。

ただですね...、龍吟庵の庭園が"八相の庭"に対して劣ると言う感じはありません。龍吟庵の庭園も素晴らしい枯山水です。

龍吟庵の特別拝観は11月です。
この時季以外には、拝観することは出来ません。


11月下旬に某日に訪れた東福寺ですが、日本の麗しさとか美しさのようなもののひとつを垣間見ることが出来ました。

鎌倉時代創建の大伽藍を配する東福寺の建築群。
昭和の作庭家.重森三玲の美学をみることが出来る庭園。
そして、時を忘れるほどの感動的な紅葉。

とにかく..、東福寺の紅葉はお奨めです。

*ただ、早朝から物凄い人です。更に人が増えるお昼からはお奨め出来ないかも知れません。
閑散とした東福寺を知っている私としては、早朝の人の多さも、ちょっと興ざめるものがありましたが、あの紅葉を眼にすると何もかも飛んでしまうほどでしたが..。

見応えがありました..、名刹と陶器窯あるの街

幸兵衛窯のギャラリーです日曜日、名古屋はとても秋晴れで、紅葉日和の一日でした。

お昼、少し前から紅葉を見に出掛けました。

場所は岐阜県多治見市にある虎渓山永保寺...、"夢窓国師が開創され、仏徳禅師を開山とする臨済宗南禅寺派の寺院"とのことです。

国宝の観音堂と国定名勝庭園に指定された池泉回遊式庭園、その廻りを紅葉が囲む景観は見事です。

この庭園に池に架かる"無際橋"を見ると、何となく池と橋を背景に写真を撮りたくなります。名勝庭園たる所以が実感出来ます。


ところで、掲載写真は、紅葉でもなく、名刹や名勝庭園でもありません。ちょっとひねたような感情が見え隠れしている様にも見える獅子の焼き物です。

多治見市は、陶磁器の街であり、街の随所に窯元やギャラリー、陶磁器資料館や私設美術館などがあります。

陶磁器に全然明るくはない私でさえも溜息が出るような作品や何に惹かれるか分からないけれども「綺麗だな..」と想わせる作品やお品を眼にすることが出来ます。

荒川豊藏とか加藤卓男などと言う和楽とか家庭画報の特集の写真でしかみられない巨匠の作品が観られます。

特に..、故加藤卓男の実家である"幸兵衛窯"の展示資料館は圧巻でした。

あるわ♪あるわ♪...、中国、朝鮮、ペルシャの陶磁器や美濃の古陶磁、桃山時代のものまで...、棟方志功の釈迦十大弟子の一枚も床の間に架かっている。
まったくと言って良いくらい眼のない私としては「本物ですか?」と何度も胸の裡で想い返したくらいです。
厳重なケースではなく、程々に展示されている。

どうやら、加藤卓男が、生前、世界中を旅して収集した作品を展示しているみたいなんです。
入場料も数百円程度だし、何よりも人が少ないのでゆっくり観られる。
地方都市の私設資料館特有のゆっくりした時間が楽しめます。

この獅子の焼き物も展示資料館に踊っていたものです。

ちょっと見応えある一日でした...


*おまけ...、この日は訪れなかったのですが、多治見にはカトリックの修道院があります。
永保寺からほど近い丘にあるのですが、綺麗な建物です。以前、中に入ったことがあるのですが、神聖な感じのする空間でした。マリア像がとても綺麗なお顔をしていたのを、随分と年月が経った今でも憶えています。

辻ヶ花の羽織...、ちょっとない空気感です。

森健持 羽織辻が花/創作家.森健持氏が手掛けた絵羽織。

辻ヶ花は、そもそも、室町時代から桃山時代にかけて使われていた絞り染めの技法です。
その独特な絞り柔らかな加減と図案、そして彩色からは、古典的とか伝統的とかにはない、古(いにしえ)の空気感を憶えます。

なんとなく、礼装とは少し外れた感じのする羽織に思えるかも知れません。でも、遊心地に踊った感じもなく、むしろ、絞りにも関わらず品位みたいなものもしっかりあって余所行き感が色濃く感じられます。

絵羽織は、染め描かれる柄模様/図案の空間が、着物や帯よりも大きく、また、正面に柄模様/図案が配されるではなくて、後ろ姿を演出するものです。また、コートと違い屋内でも、あえて脱ぐ必要のない羽織は、趣味趣向、装いの格式、意識などが確実に伝わるものなのです。

辻ヶ花が施されたこの絵羽織...、彩色も控えめで、何かを強く表現すると言った印象はありません。彩色/図案も控えられながらも、辻ヶ花特有の香りを巧く伝えています。

草木染め手織紬と型絵染め || 郡上紬と添田敏子..、"着物と帯のあわせ"のCocept

添田敏子と郡上紬以前に、"着物と帯のあわせのCocept"のお話をしたと思います。

着物を着る"その人"の"美意識"こそが、"着物と帯のあわせ"のConceptとなる...、と言うお話でした。

例えば、秋となり冬を迎える..、袷のお着物を帯付きで楽しみ、そして、羽織を楽しむ季節を迎える。
また、時節/時季を感じ取って、着物や帯に"それらを着物の季節"として演出する(秋には紅葉の着物/毬栗の帯など)。

もちろん、TPOを意識した"あわせ"も美意識の表現だと思います。
クラッシックのコンサートに、音楽を想わせる帯(例えば、譜面が染め描かれた染帯)を使ってみると言うものです。

今回の"着物と帯のあわせ"のお話は、着物と帯のバランス感みたいなものをテーマとしてみたいと思います。
ちょっと漠としたテーマなんですが、今回は"趣味趣向の凝ってみたあわせ"の中の"着物と帯のバランス感"を取り上げています。

ご紹介をさせて頂いた着物は郡上紬。
帯地は国画会所属の染色家/添田敏子制作の型絵染め帯。

郡上紬は、「繊細優美」「装飾的な綺麗さ」などと言う言葉とは真逆の空気感のある草木染め手織紬...、紬糸の素材感と何も付加されない"素のまま"の草木の色彩だけで織られた紬織物です。

織物であっても精巧さとか端正さなどは感じられないけれども、織人の感性とか息遣いが、直に伝わってくるような特別な空気感があるのです。


陶器陶芸に例えるならば、楽焼のような存在かもしれません。

こうした空気感ある手織紬ですが...、紬だからと言って、即ち、安易な帯あわせに走ると、実は、帯が"弱く"映ってしまうことがあります。

同じ手間暇を掛けて織られた本場結城紬などは、実は郡上紬に比べて"洗練されたもの"があるようで、そこそこ"着物と帯のバランス"に偏りがあって"馴染んで"くれる場合があるのです。

郡上紬は、染織家の美意識が強く反映された織物に近い"存在感"があるようなのです。
その見た眼は、素朴な手織紬であるようだけれども、実は、個性を秘めているのです。
じっと眼にしていると、最初、眼にした時とは違う色や織の加減が見えてくるし、感じられていた印象が移ろい変わってくるのです。

添田敏子 郡上紬添田敏子さんの型絵染めは、まるで近代西洋絵画の如き強い迫力があります。

ただ、色彩と図案を表現しているのではなくて、染め描かれているもの以上のものが伝わって来そうです。
そう言う意味でも、単純な"型絵染め"に止まるものではなくて、制作者の美意識が「型絵」と言う表現を通じて昇華された...、美術的なニュアンスがあるのです。

こうした染織作品としての帯は着物を選びます。
郡上紬と同じく...、安易な着物あわせは、帯だけが浮いてしまい着物がまるで見えない"あわせ"となります。

着物と帯の"あわせ"を考える際に、趣味趣向が凝らされた着物と帯を"あわせる""重ねる"と言うだけではなくて、それぞれの質感の程度を"あわせ"ることで...、着物と帯、それぞれの存在感が主張過ぎることなく収まるものかと思います。


こちらにて掲載を致しました添田敏子さんの型絵染めは、どうやら「野菜」を基礎図案とされているようです。民芸を想わせる絵画的な型絵染め帯。
そして、郡上紬は、草木の色と手織で織られた紬織の着物。
どちらも民芸的な趣向が感じられる着物と帯です。

着物と帯の存在感だけではなくて、民芸的な趣向と言う雰囲気をも意識した"着物と帯のあわせ"です。

"ちょっと余所行き"感じの"着物と帯のあわせ"..、飛び小紋と刺繍が施された染め帯

刺繍の帯地と飛び小紋前回お話をさせて頂いた"あわせ"...、「御所解の染め帯と志毛引き染めお着物」に引き続き、今回も「小紋と染め帯」の"あわせ"をご紹介してみたいと思います。

染め帯と言っても、前回も御所解もそうだったんですが...、染め帯は染め帯でも、しっかりと刺繍が施されている。
ただ、刺繍が主体の帯ではありません。手描き友禅の中に、柄模様/彩色の一部を刺繍上げすることで"はなやかな感じ"と奥深さの様な質感を加えています。

遠目で見ると、刺繍そのものとは眼に映らないかも知れませんが、友禅だけの質感や雰囲気とはちょっと違います。

前回の御所解の染め帯も、友禅や箔遣いだけの染め帯にはない質感(ボリューム感?)と"はなやかさ"があったと思います。

また、その"はなやかさ"は、西陣織の"はなやかさ"と違う"やわらかい"感じ...、優雅さを想わせるのです。

今回の"あわせ"も、この"刺繍が入った染め帯"が要点となります。

西陣織の帯地よりも柔らかく、そして、友禅だけの染め帯よりも、"はなやか"で奥深さのような質感のようなものがある。
前回のお話した"あらたまった感"みたいなものを"あわせ"の中に取り入れる訳です。

ただ...、今回の帯は、前回の御所解と比べると、ちょっと落ち着いている感じがします。それなりに"はなやか"ではあるのですが、"些か控えめ"でもあるのです。"色付いたはなやかさ"と言うほどではありません。


今回、前回とおなじアイテム"小紋と染め帯"の"あわせ"を取り挙げたのは、この"些か控えめ"をお伝えしてみたかったのです。

前回と前々回にてご紹介した淡い人肌色"志毛引き染めお着物"には、そもそも、柔らかい色彩印象と"はなやかさ"があります。その上に、有職織物と御所解となれば"ちょっと格上の余所行き"の"あわせ"であっても、特に"格調"とか"はなやかな色気"などが香っているものです。

今回は、あえて"些か控えめ"...、なのです。

お着物は寒色系の"青みある灰色"を地色とした文様飛ばしの小紋。
散らされた文様は"五三の桐"を始めとした"お堅い文様"が使われ、すべて疋田摺りが施されています。

小紋と言っても、遊び心とか柔らかさではなくて、上品で、そして、ちょっと"きりっ"とした感じのするお着物となります。

江戸刺繍と文様飛ばしの小紋TPOとしては、礼装が求められる場所や席"未満"...、余所行き"以上"...、と言うところです。

それも"甘美さ"や"柔らかい雰囲気"ではなくて、"些か控えめ"であり、"ちょっとクールな空気感"に繋がる"あわせ"の要点となります。

着物と言うと、そもそも"はなやか"とか"着物の綺麗さ"と言う一般的な印象がある筈です。
今回の"あわせ"が"ちょっとクールな空気感"を演出したからと言って、"はなやかさ""着物の綺麗さ"が完全に失せる訳ではありません...、ただ、それらを抑える"あわせ"の術と言うのは、"都会の中での着物"には"あり"ではないかと思います。

特に"無彩色なSuit感覚"を意識した着物と帯の"あわせ"ではありません。着物には"濃い朱色系"の挿し色を効かせてあるし、また、帯には、彩色が"綺麗な刺繍"で飾られた季節の花があります。

着物らしく...、でも、ちょっと"はなやかさ"を些か控えた着物姿となります。

美味しそうに見えません?

250.jpgつい先日、お店の近くに咲いていたお花です。

写真画像を見ていると...、この"花の彩り"ですが、イタリアンジェラードみたいで、どこか"美味しそう"に見えてきました(笑い)。

造花ではこんな"美味しそうな色"は絶対に出ません。

自然がもたらす"色"の魅力をあらためて垣間見た気がしました。

My Favorite Things...、JazzPiano/Michel Petrucciani

Petruccianiちょっとお着物のお話から離れて、久しぶりに音楽の話題をほんの少しだけ...

ミシェル・ペトルチアーニ(Michel Petrucciani)の"Oracle's Destiny"。

ミシェル・ペトルチアーニは、イタリア系フランス人のジャズピアニスト。
フランス人で最も成功したジャズミュージシャンと言われています。
古い人ではありません。
1962年12月28日生/1999年1月6日没。
先天性疾患による障害に苦しみながら多くの作品と名演奏を残した夭折のジャズピアニスト。

このアルバムは、Parisを離れN.Y.に渡る少し前に、Parisで録音されたソロピアノ作品です。どこかクラッシックロマン派音楽の影を感じさせるペトルチアーニのジャズピアノは、幻想なベールに覆われたような響きとどこか都会的な空気を伝えてくれます。

この"Oracle's Destiny"ですが、秋に聞くと良いかも知れません。

アルバムジャケットのデザインもお気に入りです。



おまけ/ペトルチアーニについてWikiより...

"ペトルチアーニは、若い頃から体質上「寿命は20歳程度まで」と言われていた身だった。実際にはそれよりはるかに寿命を長らえて活躍したが、ツアー先のニューヨークで急性肺炎を起こして死去した時は、36歳の誕生日から10日足らずであった。彼の遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地内、フレデリック・ショパンの墓からほど近い場所に葬られた。"

"1994年、レジョン・ドヌール勲章を受章、2002年6月にはパリ18区の広場が「ミシェル・ペトルチアーニ広場」と命名された。"

貴き西陣織..、リヨンの花/勝山健史

勝山健史 リヨンの花勝山健史氏が制作した西陣織九寸名古屋帯。

ちょっとない存在感が感じられる織物です。
一見すると、古より受け継がれて来た古裂布のようでもあるのですが、古代とか現代などと言った時間の軸とは、全く違う時間がこの織物には流れているかのようです。

新しい"もの"を求めるのでもなく、古い"もの"に回帰する訳でもない...、西陣織の長い歴史におもねることなく、そして、現代的と言う表現にも迎合しない...、研鑽された美意識がつくりだした存在感が感じられるのです。

黒色と鈍さが残る引き箔の織物...、控えられた色印象でありながらも、なおも美しさが伝わってくるのです。

"リヨンの花"と銘が付けられた美しい織物です。
(塩蔵繭/織糸.使用)